森会長失言問題をオリンピック不開催の原因にしようとする日本的な生贄の風習
私には、これはいかにも日本的であるように思える。最初から、「~さんがいるなら、やめさせてもらいます」とか、「~さんがいる会議には出席できません」と言って、相手を追い詰めようとするのは、いかにも日本的で陰湿なやり方である。看過できない差別主義者が、自分が関係する組織の中にいるのであれば、先ずは、関係者として、その真意に対する説明を求め、改善の可能性があるか一緒に考えようとするのが、筋であろう。東京オリンピックの開催を真に望んで協力しているのなら、なおさらのことだろう。ボイコットというのは、いろいろ内からの変革を試みて、このままでは自分の目指した理想とは正反対の結果になってしまうと判明した時に取る、“最終手段”である――手段というより、諦めの決断である。
トップの考え方がおかしいからといって、自分がその組織からさっさと抜けたり、話し合いの場を欠席したりしたら、そのおかしなトップのいいなりになってしまう。例えば私が、トップの考え方がおかしいからという理由で、教授会を欠席したり、多くの人と一緒に準備していたイベントへの協力を急に取りやめるなどして、そのことを正義感ぶって得意げに公言したら、「何と幼稚な奴だ、自分の努力を拒否している」、と批判する人が出てくるだろう。それと同じことのはずだが、どうして、森会長が出てくると、そうした指摘をする人がいないのか。
この件で、陰湿な圧力のかけ方が良しとされたことには、主として二つ理由が考えられる。一つは、政府・自民党やスポーツ界ににらみをきかす森氏の権力が絶大なので、“内”から批判してもほぼ効果がないことを、批判している人たち自身が前提にしていること。つまり、まともな議論はできないと最初から諦めているわけである。もう一つは、東京オリンピックの八月開催が絶望的な様相を呈し始めているので、コロナという非生物ではなく、誰か人間の悪者のせいにしたいという心理が働いていること。「コロナ問題の現状を考えると、オリンピック開催はもう無理」と報じていたマスコミが、組織委員会の会長の辞任問題に拘ったり、辞任が決まったら決まったで、「森氏辞任で、東京オリンピックは絶望的に」、などと報じるのは、その端的な現われだろう。